
ここでは、茨城県の歴史で有名な人物を一人紹介したいと思います。
第7代藩主・徳川治紀の三男。第15代将軍・徳川慶喜の実父である。
幼名は虎三郎、敬三郎。諡号は烈公、字は子信、号は景山、潜龍閣。本当はなりあきとは読まず、なりあきらと読むが、同時期に有名な島津斉彬がおり、混同を避けるために、なりあきと読まれる。
神号は「押健男国之御楯命」(おしたけおくにのみたてのみこと)・「奈里安紀良之命」(なりあきらのみこと)など。官位は従三位権中納言だが、薨後、正一位権大納言が贈られている。
藩政改革に成功した幕末期の名君の一人である。
しかし将軍継嗣争いで井伊直弼との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま死去した。
諡号の「烈公」にもあるように、まさに幕末をその荒々しい気性で生き抜いてきた人物であった。
斉昭は単に艶福家であったのみならず、女色に淫すること甚だしく、兄嫁・峯姫(徳川家斉の娘)の上臈・唐橋(元大奥女中)にも手を出していたと言われる(三田村鳶魚の著作より)。
そのほかに、長男の嫁・線姫にも手を出したなどという説もある(そのため、線姫は結婚5年で自害)。
また大奥の女性達に対して、今で言うセクハラまがいの発言も多かったと指摘されている。このため、大奥の女性達に忌み嫌われており、息子・慶喜の将軍継承にも影響があったとされる。
なお、斉昭は生涯に男女あわせて37人の子供をもうけたが、その多くが各地の藩主になったり、嫁いだりしている。
幼少期から水戸学の影響を受けたため、開国には猛反対していたが、西洋の物品に対しては大いに興味を示したといわれる。
幕末期に人材の少なかった徳川家では唯一のカリスマ性と行動力を持ち合わせた人物だった。そのため、その死は幕府にとっては痛手であり、彼の死後、水戸藩では内紛が起こって彼が見出した人材はことごとく自滅することとなる。
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